観る

神は人の眼を後ろでなく前につけられた。ならば観ることとは何?過去を振り返ることとは何か? 眼前に広がる世界は何か?

人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし これに心を向けられるのか。 朝ごとに訪れて確かめ 絶え間なく調べられる。 いつまでもわたしから目をそらされない。 〜ヨブ記7章〜

 属性

なぜ属性か?

結局わたしたちが話し合ったり、考えたりしていたことは、
属性に関する問題だったんじゃないかって思い、
インターネット神学のサブタイトルを変えてみた、どうでしょう?
この属性の問題を、先人たちも苦労しながら考えてきたんではないか。
神性、人性、そして、キリストの本性をわたしたちが受けるとはどういうことか?
わたしは現在、「女・性」について考えてみたいって思ったりしてるけど、
でも、それが本来的なのかどうかもわからなく、社会的に言っても自信なく、
けっこう、フェミニストなんだよって言いくるめてきたわりには、
なーんにもわかってなかったりする。
だから、イエス・キリストが、わたしの中心にいてくれてることで、って話は、
言ってみればわたしにとってかなり、ギリギリの線だったのかもしれぬ。

属性、ものが、それなしでは考えられないような本質的な性質。

誰にわかってもらうわけでもないけど、侵食の問題に踏み込んできたこの流れは、
これからの、このブログの、行くべきところに向かっている感じとして、たしかな感じ。
by けい

そよぎのようななぞり

浸食はない

うん。むろん、わたしとあなたのサーフェースに浸食(まざる)はないといえる。いやまた多少のギザギサがあったとしても、でもどうだろ?やっぱり結果は「私」だし、「あなた」だということの了解は認めてみる。そうしてまた次のように予備的にも認めてみる。それは何らまざることはなく、わたしとあなたがただ自らを自らの殻に閉じこめて於くこともいいとさえ主体を措定してもかまわない。[直観]主体

主体の在りよう

でもその主体の二つの在りようはいずれにしても新たな展開があるといえる。というのも、仮に殻に閉じこもるにしても、その穿つ自らの殻の穴(ファインダー)から、すでに「世界」はその萌芽として開かれていると思える。それは「あの橙色の花はきれい」だという切っ掛けからの始まりであってもいいのかも知れない。そのことで、すでにわたしがあなたをふくめた「世界」に開かれているということが、意識の在りようではなく、そこに世界「が在る」事とそこに世界「で在る」ことの明確な分水嶺がつくり出されるのではないだろうか。ことの展開結果は別にしてもは過程は可能だ。
いずれにしてもその世界の開きがあるということは、それはただおもむろになぞることが「わたし あなた 世界 花 殻 ファインダー」というもの客観的事実が物理的あるいは生物的特有の反応の条件をみたした結果、わたしが「あの橙色の花はきれい」ということになったとはいえない。まして、それでもってシャッターが偶発的に下りたわけでもない。

「がある」と「である」

さあでは次に話を進めてみよう・・・。
またそれがその分水嶺の「がある」から「である」に移行し志向する中で、それがあなたをふくめた世界ということがわたしも対象外ではなく更にわたしをも取り込む世界としての「存在」と見えてくるのではないだろうか。
その世界とは端的にわたしたちを囲む天蓋のようなものではない。むしろパソコンのハードディスクのコードようにその新たなもの(世界)というものにつながる感覚だと思える。何となればいつでもわたしとあなたとの関係は切ることも出来(わたし自身との関係も切ることが出来る-わたしのデータも向こうのディスクに在るかも知れないから)、またそのファインダーの穴を塞ぐことの自由は誰でもある。(この感覚はまったく図像には出来ない。あれまぁ!)
そうして、その橙色の花にかけられた水があったとしよう。その水の冷たさがあらゆる物理的に「在ること」が証明されても、それさえも直接にわたしが関知しえないことであっても、まずは自らの水へのわたしたちの了解をさらに常に超えるものとして世界が存在であるということは何よりもの要と思える。またその主体存在(≒世界内存在)は反対にわたしは水の冷たさを知らないとも言える自由も可能だと思える。

そして...なぞり

しかし、穿つ穴においても、あるいはもしも見つづけたり理解し(決断する・シャッターを切る)ことの継続において、自己と他者における関係を超えたものとしても、まずは「あの橙色の花はきれい」ということが、保留や条件や付帯事項もない、わたしとあなたへと浮き彫りにさせてくれるのは確かではないだろうか。むしろありのままの「がある」と「である」というその主体の了解が何よりもわたしにとってあなたは大切であるという感謝の善さに招かれたのは予想もしなかった。それは確かな開かれたわたしとあなたである(主体の構築)といえる。そのように、なぞりはすでに主体存在の内にあるとさえ言える。
だから在ることがそんなに強迫観念として襲うこともなく、風のそよぎのようにただ黙ってなぞることも「あり」なのだから。そして「がある」と「である」によって世界は新たにされ、その世界に開きながら、志向という関係性をつくる解釈にも向かうのだろう。
byつらら

 Image

Image à la sauvette (fr édition) <<< Decisive Moment ?
逃げ去る心象 ... 認めることさえかなわず逃げゆく速やかなる像 ...わたしたちの中心にある一つの宮を像は次々と遁走し逃げ去る...。
その逃げ去るイメージを保ちながらわたしの中心に立ちすくみ・・・を再読してみた。

 主体

わたしがあなたに混ざったり、あなたがわたしに混ざったりすることは、
たぶんあり得ないということをまずは認めてみる。
そのうえで、
わたしはあなたの出来事に徹底介入し、わたし自身をもあなたに投げ込む、
ということが可能かどうかを考察する。
あなたがわたしに徹底介入し、あなた自身がわたしにむかって投げ込んでくるのを、
いったいわたしがどうするかは、まったく未知。
考察は結局のところ感情(親密さ)に触れ、戸惑いを呈す。
なぞりの方法論。
出来事を切り取るということは、かなり命がけだにゃ。
わたしの中に立ちすくむキリストは、
主体構築を要求するか?
それとも、そういう方法論ではないものなのか?
by けい