立ち現われる

書き綴る

やはり<立ち現われる>こと。
けいさん、元気?そっちはもう寒いでしょうね?

秋の水の礫がボクの肌を撃つ。そして秋の花が実をつけている。2005-10-13からこちらのはてなにシフトして、ボクはもう少していねいに書き綴れないかと思う。2005-09-26
確かで、明証的で、ボクらの存在に帰結することを。
ボクらを越えて<世界>が<立ち現われる>ことを。
ううん、超越の神なんかじゃなくてさ。神という話少し外してさ。

  • 確かにボクらがキリスト者だとしても、何だかそれとはもう少し違うこととして。このことが出来るからこそ神のことも話せる。このニチジョウを話してこそ神のことも話せる。むろん、ニチジョウがこっちにあって、神があっちにあるだなんてとうてい思えないけれども。それはズイブン都合がいい話というよりも元からそんなことは出来ないこと。そんなことならこんなふうにダラダラと書きはしないと、そう思える。

だから・・・遠回しかも知れない。たしかで明らかでボクらそのものに帰りつくことを。だけど少し書いてみることにする。
何故なら、この<立ち現われる>ことの輪郭をはっきりすれば、この先何か見晴らしのいい処。風通しのいい場所に立てると思えるから。

棚上げにする

次々にボクの形相的像(イデア)の器に流れをもって日毎に注ぎ込むものがある。有を越えたひとつの有を見る。ボクらはその流れに<思う>ことを棚上げにしてみる。その流れに<向うことの思い>を棚上げにする。あるいは花に<思う>こと、花に<向うことの思い>を棚上げにしてみる。「私」「わたし」を棚上げする。残ったなにがしかの「ワタシ」をも棚上げに。もしかしてフラッシュバックの残像さえあるならばそれもボクらの一切を回避してみる。これは無化ということだろうか。その真空によって満たすものが注がれるとヴェイユが云っても何だか白々と空を眺めてしまいそう。しっくりこない。

でどうなのだろう?棚上げになったかな? いや、それさえそのことすらももうボクらは離れているのかも知れない。ならどうする? いや、それは越えるということかな。分らない。

でもたとえばあの日かの時、誰しも強く失ったことのあること。その日々の実体と意識もついに忘れるような、あるいは悲しみさえからも遠く隔たったこと。こちらが遠くなるのか。思いがこちらから遠ざかるのだろうか。もうそれさえ分らないこと。というより、ボクらの<思い>だったことが別にあり、またボクらという<存在>が別にあるということのそのもの情景。と云う方がしっくりくる。
思いやボクらが時の彼方に行ったにしても、<立ち現われる>ことは決してボクらの記憶ではなく、<立ち現れる>記録というふうに云えるのではないか。

帰するところから新たに

だとしたら、無化というよりも一切を棚上げにしたボクらは回避したボクらは、そこにこそ、今にこそ、ここにこそ、ボクらが<世界>にそう思うことと<世界>がそう思われることの間で確かに<立ち現われる>ことがあると云えるのではないか。たしかで明らかでボクらそのものに帰りつくこうとすること。その帰するところからまた新たに思うことと方向を経ようとする。今もボクらの意識は留まることなく流れているのだ。
少しはボクは見晴らしのいい処にきたようだ。けいさんはどう?
by 氷柱