ニチジョウの花


ニチジョウの花がきれい
コムラサキシキブの花がきれい
このコムラサキシキブの
このムラサキが
なにか
なにか
なにかニチジョウで
でもたぶん
ニチジョウはムラサキなんかじゃなくて
花なんだよって
たぶん言いたいんじゃないだろかって



私が手に触れることができる何かが、一つであるにもかかわらず、私の目の前に二つとして立ち現われる。「現われる」根拠は私にはない。他者の自由に任されている。私は一つに触れているから、おそらく一つだけが現われるのだろう思うが、そんなことはない。立ち現われるもの、そのなにものかが、一つであるという確証はどこにもない。この影のように。私が私を棚上げにしようがしまいが、立ち現われるもののみが決める、その姿を現したいように現す。


氷柱さん、秋だけど、寒くないんです。
歩くと汗ばむし、部屋にいると太陽に蒸します。
秋だからだと思うのでありまする。
秋になったから寒くなったでしょうと、やさしい心の氷柱さんは声をかけてくださる。声をかけてくださるのは、ただ「寒い」ことが気になるんじゃなくて、「元気かい」ということが知りたいからなのではないでしょうか。そんなふうに、秋は、みずから冬へと降りながらも、関係のために媒介となってくれているのですね。秋が冬に降りながら温める。

立ちすくむ


生命力に溢れ、打ち砕かれ、死に、復活したイエス・キリストを人間イエスとして想像するとき、私の目の前に、彼は、一人の人間としてしか立ち現われない。しかし、ほんとうにそれだけなのだろうか。多くの宗教芸術家が、彼らの前に立ち現われるイエス・キリストの姿を描いてきた。描くだけではない、歌い、奏で、物語のなかに表現してきた。しかしどうだろう。彼らは、立ち現われた彼を知り、その姿を真摯に描きながら、彼ら自身にまとわりつく人間性に苛まれることはなかっただろうか。また逆に、彼ら自身に備わった人間性に癒されることはなかっただろうか。同じように、宗教芸術家のように表現する手段をもたない者も、イエス・キリストを前にして、自らの人間性を知る。私の中に誰かが立ちすくむ、あるいは自分自身が立ちすくむその時を知るなら。私の人間性のありのままが、私にわかるという、それを神秘 Le Mystère と呼ぶのではないか。
by けい