そよぎのようななぞり

浸食はない

うん。むろん、わたしとあなたのサーフェースに浸食(まざる)はないといえる。いやまた多少のギザギサがあったとしても、でもどうだろ?やっぱり結果は「私」だし、「あなた」だということの了解は認めてみる。そうしてまた次のように予備的にも認めてみる。それは何らまざることはなく、わたしとあなたがただ自らを自らの殻に閉じこめて於くこともいいとさえ主体を措定してもかまわない。[直観]主体

主体の在りよう

でもその主体の二つの在りようはいずれにしても新たな展開があるといえる。というのも、仮に殻に閉じこもるにしても、その穿つ自らの殻の穴(ファインダー)から、すでに「世界」はその萌芽として開かれていると思える。それは「あの橙色の花はきれい」だという切っ掛けからの始まりであってもいいのかも知れない。そのことで、すでにわたしがあなたをふくめた「世界」に開かれているということが、意識の在りようではなく、そこに世界「が在る」事とそこに世界「で在る」ことの明確な分水嶺がつくり出されるのではないだろうか。ことの展開結果は別にしてもは過程は可能だ。
いずれにしてもその世界の開きがあるということは、それはただおもむろになぞることが「わたし あなた 世界 花 殻 ファインダー」というもの客観的事実が物理的あるいは生物的特有の反応の条件をみたした結果、わたしが「あの橙色の花はきれい」ということになったとはいえない。まして、それでもってシャッターが偶発的に下りたわけでもない。

「がある」と「である」

さあでは次に話を進めてみよう・・・。
またそれがその分水嶺の「がある」から「である」に移行し志向する中で、それがあなたをふくめた世界ということがわたしも対象外ではなく更にわたしをも取り込む世界としての「存在」と見えてくるのではないだろうか。
その世界とは端的にわたしたちを囲む天蓋のようなものではない。むしろパソコンのハードディスクのコードようにその新たなもの(世界)というものにつながる感覚だと思える。何となればいつでもわたしとあなたとの関係は切ることも出来(わたし自身との関係も切ることが出来る-わたしのデータも向こうのディスクに在るかも知れないから)、またそのファインダーの穴を塞ぐことの自由は誰でもある。(この感覚はまったく図像には出来ない。あれまぁ!)
そうして、その橙色の花にかけられた水があったとしよう。その水の冷たさがあらゆる物理的に「在ること」が証明されても、それさえも直接にわたしが関知しえないことであっても、まずは自らの水へのわたしたちの了解をさらに常に超えるものとして世界が存在であるということは何よりもの要と思える。またその主体存在(≒世界内存在)は反対にわたしは水の冷たさを知らないとも言える自由も可能だと思える。

そして...なぞり

しかし、穿つ穴においても、あるいはもしも見つづけたり理解し(決断する・シャッターを切る)ことの継続において、自己と他者における関係を超えたものとしても、まずは「あの橙色の花はきれい」ということが、保留や条件や付帯事項もない、わたしとあなたへと浮き彫りにさせてくれるのは確かではないだろうか。むしろありのままの「がある」と「である」というその主体の了解が何よりもわたしにとってあなたは大切であるという感謝の善さに招かれたのは予想もしなかった。それは確かな開かれたわたしとあなたである(主体の構築)といえる。そのように、なぞりはすでに主体存在の内にあるとさえ言える。
だから在ることがそんなに強迫観念として襲うこともなく、風のそよぎのようにただ黙ってなぞることも「あり」なのだから。そして「がある」と「である」によって世界は新たにされ、その世界に開きながら、志向という関係性をつくる解釈にも向かうのだろう。
byつらら