le sujet

主題le sujet
どのように主題を否定できるだろうか?それは確かに必要である。それはまるで私たちのもっとも個人的な世界の中にあるように、この世界に、すべての事柄の中にある。だから、すべての事柄を前に自覚的であること、私たちが感じているものの前に正直であるということだけで、ある意味充分なのである。要するに、認識するということに関して、そこにあるということ。
主題は事柄を収集するということなのではない、事柄それ自体が重要なわけではないから。重要なことは、それらの中から選ぶこと。つまり、深いリアリティに対してほんものの事柄を掴むことなのである。
写真において、もっとも小さなことが、もっとも大きな主題となる。人間のもっとも細部に関することがライト・モチーフとなる。私たちは、私たちを囲む世界の証言のようなもののなかで、見るし、見させる。それは、形態の有機的リズムを生じさせる純粋な機能による出来事なのである。
同上p26

 カメラとは

私にとってカメラはクロッキー帳であり、直感の装置、内から沸き出でる自発性の装置であり、またそれは視覚言語によって問いと決定を同時に行う瞬間の支配者である。世界に「意味を与える」ためにには、ファインダーが切り取る対象に自己が巻き込まれていることを感じなければならない。・・・略・・・写真を撮るということは、理解するための手段であり、それは他の視覚表現手段と一体のものである。それは叫ぶ方法であり、自己を解放する手段であり、自身の独創性を証明するためのものでもなければそれを確認するためのものでもない。それはひとつの生き方である。〜1976年 カルティエ=ブレッソン
パリ・街・人 アジェとカルティエ=ブレッソン 1988年写真展カタログより

 なぞる

なぞることの可能性

カルティエ=ブレッソンなぞってみた?
ボクもHCBにいっていろいろ観たり、また新たに知ったりもした。
でモゾモゾ解ったりした。
でもって新たなエントリーにしてみたさ。
っていうのも。
カルティエ=ブレッソンの写真は

  1. なんだかヤンチャなデカルトの「コギト‐エルゴ‐スム」は超えてるし
  2. 時間と物語とか
  3. 自己と他者

などなど。
てんこ盛りでボクに整理出来ないくらい解けさせた。
でもって
なぞっているものが何か?の問い
とかの違う地平っていうか
(それはそれでボクもまったく問い続けるけども)
少しなぞる対象とかを横においといて
なぞるそのことそのもの
つまりは
カルティエ=ブレッソンの写真の「思考と想像力」
によってなぞりの方法を露わにしていくことがこれからを可能にしていくように思える。
もう少しボクはボクでカルティエ=ブレッソンを進めたい。
遅々来々で次に続々。

by つらら

カルティエ=ブレッソンの写真論

でもって参考までにHCB_homeHCB_homeカルティエ=ブレッソンの「写真(なぞり?)」のコメントがありますが、1988年の写真展の訳を参考までに載っけておきましょう。

 顔 

まずはしばらくゆったりと・・・

アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真を見るのもわるくはない。http://www.photology.com/bresson/Bottom2.htm
何も予見もなく、ありのまま?に人の顔を観ていこうではないか。

顔を観る

だが、このわたくしの顔だけはいつになっても顔そのものを観ること(知ること)はないだろう。そのこともまずはウッチャテ顔を観ていこう。その「自由」はあるのだから。顔のコウベを縦にも横にも振ることは出来るのだから。

ヤンチャな思慮の「良識」

その自由の大前提において、かのヤンチャ!で思慮深いデカルトはあの方法序説に「良識」と書き記したのだろう。時あたかも反宗教改革の相克の時、1616年にコペルニクスの書が法王庁において禁書目録に加えられ、1633年ガリレイ断罪の時でもあった。しかし、ただデカルトは自らのためにその書を著わしたのだった。わたしたちを「人間たらしめる」ことにおいて著者名なしで出版したのだった。だがまた、諸学問がまったく人生に役立つものでないことを知り得て書をすてて旅にでたデカルトを思うと、何だか可笑しく嬉しくほくそ笑んでしまうのは不謹慎ではないと思えてくるからふしぎだ。彼の「良識」もまた新たに意味深いものとなる。
by 氷柱