will do

http://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20050504

エスはいう。「私の教えは私のものではなく、私を遣わされたお方の教えである」と。「そのみ旨を行おうと望む者は、私の教えが神ものか、あるいは私自身が話しているのかをしるだろう」と。ヨハネ 7:16-17

その机をボクは鉛筆で行おう(なぞる)とする。あるいはその道を行う(歩く)。確かなボクの同意の行いを通して。

道。「わたしは道と」イエスはいう。フィリポは「わたしたちに父をお見せ下さい」と。「それだけで十分」と。

エスは憐れみと慈しみの内にフィリポに言う。「私が父におり、父が私にましますことを信じないのか。私が話していることばは、自分で話しいるのではなく、私にまします父のみ業を行っておられる。私を信じよ。私が父におり、父が私にまします。せめてそれを私の業によって信じよ。」ヨハネ 14:6-11

机が神に見られるという「わたし」。ボクたちが鉛筆で机をなぞるように。カサカサと。比類なき幸運に恵まれて。

あなたたちが私の名によって願い求めることはすべてかなえられ、父が子において光栄をうけた給うようにわたしが計らおう(行なおう)。ヨハネ 14:14

will do あるいはwillを萌芽とするdo。未来を先取りされる行い。あるいは終末を包含する今。常なる今。永遠。
by 氷柱

 わたしの中心に立ちすくみ、わたしを見る何者か

http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050505

わたしの中心に立ちすくみ、わたしを見る何者か

どの体験もすべて相対化されていく。崖までたどり着いて、崖のむこうの「何者か」との交流をつかさどった「素晴らしきものたち」は、どんどんその崖になだれ落ちていく。「神体験」「超越体験」を入れた「器」が、殻となって落ちていく。しかし、このわたしにとって、崖の向こうになだれ落ちることなく、崖のギリギリに立ちすくんで、これまで経験してきた「神体験」「超越体験」を支えているさらなる「何者か」がいる。これが、イエス・キリストだった。

「神体験」「超越体験」ということで考えた場合、そのギリギリに立ちすくんでいる「何者か」が、オウム真理教(現在はアレフでしたね)の○○さんだったりする。わたしの現時点での結論は、「結果をみるしか判断できない」。木の良し悪しは、その実を見て知る、という。「神ってなんだろ」の問いは、こうして、時間論との論議に発展していくことになると思う。

「宗教的次元」と「現代文明批判的次元」は、わたしにとって、前者を「崖のむこうの天空」と、後者を「崖の底の闇」という二つの極に象徴することができ、また「宗教的次元」を「神体験」、「現代文明批判的次元」を「神体験を入れた器」と言い換えることができる。この両者への眼差しを光らせながら、崖のギリギリのところで立ちすくんでいるのがイエス・キリストだと確信するうえで、「イエス・キリストは神である」と言っているわけだ。

さて、「何者かの代入について」。

まず、「一回きりの生を私が悔いなく生ききる」、という前提において「何者かの代入」は何でもいいわけではなく(相対化されない)、偶然ではない、ということは言える。「この私の生が一回きりだ」という前提は、「一回きりじゃないかもしれない」という考え方とは飛躍的に違う。この言い方は、歴史性と存在論をまず規定する。そしてこの基礎から出発すると、一回きりの生を私が悔いなく生ききる時の、私の中心軸、その中心軸が「何者かの代入」と言えるかもしれない、とまず考える。

で、ここからは、わたしにとっての「一回きりの生を私が悔いなく生きる時」に、その「歴史性と存在論」をかえりみたときの「何でもいいわけではない、何者か」論になる。。。とりあえず、その「何者か」が「物」ではない、ということについて。

「立ちすくむ何者か」(以下、「何者か」)と「多数の私」(以下、「私々」)。

白い紙に、ペンで点線を使って「人のかたち」を描く。点線なので薄っすらとしか「人のかたち」が見えない。その点線の外側を少しずつ斜線で塗っていく。点線の内側には色が入らないように注意しながら外側を塗る。点線の上を線でなぞったり、その外側をしっかり塗りつぶしながら「人のかたち」の外を塗っていく。すると、点線の内側の今まではっきり見えなかった「人のかたち」は、外の影によってだんだんと浮き出てくる。

わたしにとって言ってみれば、この点線の内側の「人のかたち」が「何者か」、そして「外の影」が「私々」、そして、この両者によって明らかにされた「人のかたち」が「わたし」となる。つまり、この「わたし」は、「何者か」と「私々」の絶えざる相互関係によって、時間の連続性と非連続性なかで、その様態が明らかにされていく。点線が「人のかたち」をしているか、していないかは、現時点の「わたし」にとっては重要。影が強く出れば出るほど、内側の「人のかたち」が浮き出てくる。逆に「人のかたち」が光って浮き出れば出るほど、影が強くでる。「立ちすくむ何者か」の立ちすくみかたは、影である「私々」によって明らかにされると同時に、さらに「立ちすくんでいる者」の眼差しが明らかになれば、影である「私々」も見られることになる。わたしが考えている「何者か」と「私々」の関係は人間性の交換に近いと思う。ここを通って神体験、超越体験ということになる。

代入すべき「何者か」は「私々」との内的、霊的、具体的対話の相手なので、やはり「何者か」でなければ、「私々」は人間性を発揮できないのではないか。

「何者か」に「何を代入するか」は、ほんとばかにできない問題だと思う。ちょっと考えてみても確かにいろいろある。人、もの(物体、偶像)、生き物、自然、抽象的なもの、具象的なもの、それこそ、イメージとか、宇宙とか、いのちとか。。。しかし、ここに「何を代入するか」は、「私々」の自由意志であり、「私々」の歴史性に多く関わり、だからこそ、限界があると同時に、開かれていると思う。あと、「何者か」は、ただ「何者か」なのであって、「何かはわからない」というのもあるかも、と思う。それにしても大事だと思うことは「物」ではなく「何者か」であること。

そして、時間の連続性において明らかに「何者か」の様相が変化する。どう説明したらいいのかまだわからないが、「時間論」は絶対に問題になると思う。

こうしてみると、「私々」の外に位置する「他者」(人、自然、もの・・・)との関係は、たぶん、「私々」と「他者」との連帯、限界を備えた被造物としてみるうえで、「何者か」とは区別していることに気づく。「何者か」との対話において「生」にある「わたし」は、「何者か」の視線をみずからの身体を貫かせるべく生きたいと望む、ということになる。。。

by けい